Category Archives: Global Warming

一体「ツバル」は沈みつつあるのか? – NHKの恐怖に訴える論証

20年前(2002年)のNHKスペシャル、「地球温暖化で島が沈む、南の島、ツバルの選択」は、南太平洋のサンゴ礁の島「ツバル」が、地球温暖化による海面上昇で沈む国だと放送した。しかし、ツバルでの目立った海面上昇は観測されていない。沈没説にはどうも政治的な臭いがついて回る。 Fig.1 ツバルで海水が浸水した家 (Webから) 2006年には、「地球温暖化による今後100年の気候異変を最新科学で迫る」という二夜連続のNHKスペシャルの番組で「異常気象、地球シミュレータの警告」が放送された。しかし、異常気象の統計的データはまだ観測されていないにもかかわらず、シミュレーションの結果を述べるのみだった。どうも、異常気象説にも政治的な臭いがついて回るようである。 つい先日(2023年、2月)、NHKスペシャル、混迷の世紀、第7回が放送された。ロシアのウクライナ侵攻後に、脱炭素政策がゆらぎ始め、灼熱地球の恐怖があるのだという。 Fig.2  NHKスペシャル、混迷の世紀、第7回 (Webから) 証拠のない仮説を肉付けするために、発足当時のローマクラブではシミュレーションが用いられた。IPCC でもこれが踏襲されている。「恐怖に訴える論証」をするためにシミュレーションを実行し、結果が如何に恐怖に満ちたものかを示そうとした。 温暖化は人為的な行動変化により起きる。 CO2が増えると恐ろしい地球環境になる。 したがって温暖化を抑制するには、CO2を減らすのが真の答である。 恐怖、不安、疑念(fear, uncertainty, and doubt、FUD)は、販売やマーケティングにおける「恐怖に訴える論証」を指す用語である。企業は人為的温暖化の仮説に否定的な態度を取れば企業イメージを損なう恐怖がある。だからネガティブなことは言えないのである。 上記「NHKスペシャル」では恐怖を煽った。シミュレーションの結果をまるで事実であるかのように報道する。CO2による人為的温暖化で異常気象、巨大災害が起きるという。科学的証拠なしに危機感を煽り恐怖に訴えるわけである。さて前回に続いて、IPCCへ提出されたICSFのレビューをもとに今回は海面変化について整理することにする。 地球平均海面 (global mean sea level: GMSL) は最後の氷河期の終わりから上昇しており、20,000 から 7,000 年前の間に約 130m 上昇した (図 3)。その後、小氷期 (約 1350 年から 1850 年) などの寒い時期での中断を挟んで、上昇率は遅くなった。現在の GMSL 上昇期は、小氷期が終わり、アルプスの氷河の融解が明らかになった 1850 年頃に始まる … Continue reading

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戻ってきたホッケースティック曲線 – IPCCが繰り返す茶番劇

気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第6次評価報告書(AR6)が2021年から2022年にかけて公表された(和訳)。驚くことに、そのAR6に再び「ホッケースティック曲線」が戻ってきたのである。前回、この曲線の背景を詳しく述べたが、それを振り返ってみると今回は本当に恥ずべき事だろう。WG1 政策立案者向け要約 (SPM)に対するWeb上のレビューに、科学的側面が簡潔に述べられているので、以下整理しておく。 今度の「ホッケースティック」グラフ (Fig.1左図) は、過去 2,000 年間のさまざまな期間の異なる指標を組み合わせたものである。これらの組み合わせにより、現在十分確立されている温度変動、すなわちローマ時代と中世の温暖期そして続く小氷期、が否定されることは受け入れられない。 Fig.1 AR6におけるホッケースティックグラフ SPM ではいわゆる「異常気象」の発生確率が誤って伝えられている。本レポートのドラフトの正確な描写と比較して、多くのカテゴリで統計的な傾向と一致しない。 北極、南極の変化は SPM で誤って伝えられている。特に過去 15 年間、北極の海氷には事実上変化が見られない。同様に、海面の変化が、SPM で誤って表現されている。2100 年まで緩やかに上昇する可能性があるとしても「気候危機」を示すものではない。 CMIP6 気候モデルは、AR5 の気候感度の大きな CMIP5 モデルよりもさらに気候感度に敏感にである。実際の気候感度は低いという査読済みの科学的証拠を無視している。モデルは、地球科学と炭素バランスについて間違った結論を与える。また 2100 年までの地球の気温上昇の可能性は、「気候危機」を示すものではない。 SPM は実際には存在しない「気候危機」を誤って指摘している。 SPM は、大きな社会的、経済的、人間的な不適切な対処法を正当化するために使われることになる。提案された政策への影響の大きさを考えると、SPM は最高の科学的基準を持ち、IPCC 内で非の打ちどころのない科学的完全性を示さなければならない。 2010 年に、当時の国連事務総長および IPCC 議長の要請により、InterAcademy Council が IPCC 手順の独立したレビューを実施したことを思い出してほしい。その勧告の中には、レビューアのコメントが著者によって適切に考慮され、真の論争が IPCC … Continue reading

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Michael Mann の名誉棄損訴訟のゆくえ

ペンシルバニア州には東と西にフィラデルフィアとピッツバーグという二つの大きな町がある。あとは森と小さな町が点在するのみである。その中間に州都のハリスバーグがある。ハイウェイで東から西へ向けてドライブするとハリスバーグを過ぎたあたりから正面に南北に連なる盛り上がった山が目の前に立ちはだかる。これがアパラチア山脈で、オハイオ州の東部まで続く。 ハリスバーグの南東10マイル (16 km) のところにサスケハナ川があり、川にはスリーマイル島という中州がある。長さがスリーマイル (実際の長さは2.2マイル)である。この中州の中に1979年に事故で有名になった原子力発電所がある。 サスケハナ川に沿って北西へ北上し、途中から西のアパラチア山脈へ向けて行くと、小じんまりしたいくつかの町中を通り過ぎる。昔は、そのうちのひとつの町にサンヨーの工場があった。なぜこのような山の中の小さな町に、というようなところである。大きな峠を越えてさらに30分進むと大学の町へ導かれる。これが州のほぼ中央にあるペンシルバニア州立大学である。この大学にマイケル・マン(Michael Mann)がいる。彼は現在地球科学センター長を務める。   Fig.1 Michael Mann 彼は、エール大学でPhDを取った後、マサチューセッツ大学でポスドクとして研究を行った。その時、1998年にNatureから出した論文が世を騒がすことになる。この後の2001年に出たIPCCの第三次の報告書に引用された一連のプロセスは、”科学とは如何にあるべきか“という教訓が含まれている。 2011年と2012年にMannが二つの名誉棄損訴訟を起こした。1998年の論文のいわゆるホッケースティック曲線が科学的に間違いだと糾弾され名誉を傷つけられたというのである。このホッケースティック曲線はクライメートゲート事件と並んでIPCCの大きな汚点である。この科学的な背景と結末をまとめておきたい。最初に、ホッケースティック曲線の歴史の流れを知っておく必要があるので、長くなるがWebの資料をもとに整理しておく。 人為的温暖化の仮説を肯定する人々の主張の核心は、19世紀に始まった現代の温暖期が前例のない程、温度が上昇しているという推定である。もし同様の温暖化が人為的なCO2排出量が増加する前の古代から近代に起きていたなら、現代の温暖化が自然現象であり人為的に排出されたCO2とは無関係である可能性が大きい。 大気中のCO2が温室効果を持っていることは物理的に良く理解されている。(“CO2 the basic facts“)。重要な事は自然界のシステムにおけるCO2の定量的な寄与である。定量的に答えることは非常に困難である。だから前例のない温暖化が現在起きていてCO2による人為的な温暖化がただひとつの可能な因子だということを示すことはひとつの方法である。 1990年代までにAD 800–1300年における中世の温暖期(Medieval Warm Period)(MWP)に関する多くの文献があった。その後小氷河期(Little Ice Age)と言われる寒冷期が続いた。温度の指標となるデータ(proxy measures)と多くの文献に基づいて、中世の温暖期は現代の温暖期より気温が高かったものと考えられてきた。1990年代半ばまでは中世の温暖期は気候学者にとっては議論の余地のない事実だったのである。1990年のIPCCの報告でも明記されている。202ページのグラフ7cに見られる。そこには中世の温暖期の温度が現代の温暖期よりも高く記されている。 1995年の二次の報告書では、温暖化に対してCO2がより影響力の大きい因子として担ぎ出された。中世の温暖期はもはや二次的な意味しかなくなった。中世以降の温度軸が短くされ、小氷河期以降の長くてゆるやかな現代までの回復曲線となった。IPCCのメンバーだったJay OverpeckからDeming教授への”我々は中世の温暖期を取り除かねばならない。”というemailで明らかである。 1995年のIPCC二次の報告書と2001年の三次の報告書の間で大きな変更があった。気候変化の歴史の改変と中世の温暖期の除去は有名なホッケースティック曲線を通して行われた。下の二つのグラフを比較するとその過程が明らかになる。左は1990年の報告書の202ページ7cである。中世の温暖期の温度ははっきりと現代よりも高く示されている。右側は2001年のIPCC報告書 である。中世の温暖期と小氷河期は消滅している。そして現代の急激な温度上昇となっている。 Fig.2 広く受け入れられてきた概念に対する最初の一撃は1995年だった。イギリスの気候学者Keith Briffa がNatureにセンセーショナルな結果を発表した。Siberian Polar-Uralの年輪の解析に基づいて、中世の温暖期はなく1000年の後、突然温暖な気候が現れたものと報告した。Briffaらは20世紀が百万年で最も温暖だと大胆にも提案した。この提案はCO2の影響に関する論争の中心になっている。これは5000-9000年前の完新世の気候最温暖期(Happy Holocene参照)をも無視するものである。 Briffaの研究はある程度の衝撃を与えたが、さらに大きな真の衝撃がついに1998年のNatureで公表された。Mann、Bradley、Hughesの”Global-scale temperature patterns and climate forcing over … Continue reading

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温暖化問題 – なぜ原発回帰なのか

1958年、瀬戸内海の対岸の岩国(現三井化学)と新居浜(住友化学)で、ほぼ同時にフレアスタックから火が燃え始めた。石油化学の幕開けでナフサクラッカーが起動し始めたのである。今考えると両方とも日本最初のエチレン製造プラントだったが、土地のスペースはそれほど広くはなかった。それでも岩国は港をかかえ新造された麻里布丸(麻里布とは岩国の古い地区の名前)という四万七千トンのタンカーを横づけすることができた。新居浜は商店街を挟んだ社宅から耳を澄ますと「ゴー」というポンプ、圧縮機などが混ざった操業音が聞こえた。 Fig.1 三井化学岩国工場のフレアスタックを東の小瀬川から臨む。 瀬戸内海へ注ぐ河口は遠浅になっていて1958年頃は潮干狩りに最適だった。 1960年代になると石炭から石油へのエネルギー変換が進んで行く。日本の石炭は低品位炭で硫黄分が多く、需要の多い製鉄に使われるコークス製造にも向いていない。また生産コストが高いために、北九州、北海道の炭鉱は次々と閉山していき輸入にたよっていくことになる。福島県浜通り南部の常磐炭鉱も縮小され、ついには閉山になった。 常磐炭鉱の閉山の後、雇用創出のために、1966年に地元の温泉を利用した大温泉プールを併設した「常磐ハワイアンセンター」が、現在のいわき市に開設された。同じ年に五市を中心に大合併して日本一広い市「いわき」ができる。当時は初めてのひらがなの市であった。また福島県も次期エネルギーと工業化を目ぼしい産業のなかった浜通りに画策していた。 宮城県南部から千葉県の房総半島まで長い砂浜の海岸線が続く。茨城県の中央部の鹿島は砂浜を掘って港を作り(掘り込み港湾)、鹿島コンビナートとなって行く。そして三菱系(当時の三菱油化)のナフサクラッカーが作られる。北は日本鉱業から派生した日立製作所が工業地帯を形成して行く。福島に入ると常磐炭鉱が閉山された後、海岸線に沿ったいわゆる浜通りには何も産業がなかったのである。 下はいわき市にある塩屋崎灯台を訪れた時の写真である。1961年に行った時は一面砂浜の海岸だったが、大震災の後2019年に訪れた時は、人工の防波堤と新たな道路が作られ昔の面影はなかった。塩屋崎灯台は、1957年の映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台になったところである。また岬の麓には美空ひばりが1987年にリリースした「みだれ髪」の歌碑ができていた。 Fig.2 北側の人工堤防の上から塩屋崎灯台を臨む(2019/6) 常磐炭鉱が下火になったころ、東北電力は奥只見の水力発電システムを構築した後であり原子力エネルギーまで手が回らなかったらしい。一方、東京電力はすでに水戸の北にある原子力産業の拠点となっていた東海村近辺に原子力発電所の建設を考えていたようである。そこで福島県と東京電力の思惑が一致して、浜通りに原子力発電所の建設が決まったという。原発事故の後、福島県が東京へ電力を供給するための犠牲になったと言う人もいるようだが必ずしもそうではないだろうと思える。 1970年代に入ると1973年と1979年の二度のオイルショックによりエネルギー産業の転換期を向かえる。石油エネルギーから原子力エネルギーへの多角化が図られていく。このころから原発の安全性がアピールされ始め安全神話が広がっていったようだ。2000年代に入り温暖化対策のカーボンニュートラルという世界の潮流が原発を後押ししていく。しかし、2011年に福島原発の事故が起きてしまう。そして「FUKUSHIMA」は原発事故の代名詞になってしまった。 福島第二原発の北に富岡町がある。昨年(2022年)12月にこの町を訪れた。2011年、富岡は震度6強を記録している。富岡駅は海抜9 mであり、この地区は最大21 mの津波被害を受けている。さらに原子力災害という三重苦を負った。駅舎、駅の回りの家々は全て新築であった。常磐線は、2020年3月、富岡―浪江間で運転を再開し、9年ぶりに全線がつながっている。 この富岡町に2018年東京電力廃炉資料館ができた。現在は予約した上で案内係の人と共に見学することになっている。写真撮影は案内係の人の前でのみ可能である。下の写真は事故後を写したスライドの前で説明する案内嬢である。 Fig.3 事故後の第一原発を写したスライドの前で説明する案内嬢(2022年、12月) この資料館が、現在見学者へ伝えたいことはやはり汚染水の処理にについてと思われる。汚染水は淡水化装置を経て濃縮される。さらにALPS(Advanced Liquid Processing System)という独自のプロセスでトリチウム以外の62種類の放射性物質が規制基準を下回るまで浄化処理される。この装置は、沈殿処理と吸着処理からなっているようである。汚染水中のトリチウムは水すなわちHTO(通常の水はH2O)として存在する。トリチウム水は通常の水と化学的性質が同じなので、煮ても焼いても汚染水から取り除くことはできない。そこで最終的な処理水は海水で希釈された後、海へ放出されることになる。100倍近くに希釈するようである。処理しても含まれるトリチウムの絶対量は変わらない。 どのようなプラントも二重、三重の安全対策が施されている。圧力容器は必ず非常時の高圧を逃すためのデバイスがついている。弁や板が使われる。原子炉の圧力容器、格納器も同様のはずで、ニュースで耳にしたベントもそうであろう。従って、異常時には少なからず汚染物質が外へ放出される。原発は限りなく安全に近いのだろうが、事故が起きてしまうと福島のように取返しのつかないことになる。 地球温暖化が重大であり、化石燃料からのCO2排出が原因だと信奉する人々にとって、エネルギー源を何に求めるのかは、ジレンマに陥る問題に違いない。彼らにとり化石燃料はCO2を排出する悪役、原発はCO2を出さない善役である。しかし、現代の科学データは「温度変化の結果がCO2の変化である」ことを示している。この立場に立つと今後のエネルギー対策と地球環境の方向性が180度変わることになる。化石燃料は今後数百年の可採埋蔵量がある。特に石炭は広く分布し日本にもまだ埋蔵量がある。 今後石炭は、以前のように日の目を浴びても良いはずである。日本の火力発電所は排煙処理が行き届き、発電効率も高い。下図は横浜にある磯子火力発電所におけるSOx(硫黄酸化物),NOx(窒素酸化物)の排煙処理の例である。世界の他のプラントに比べ排煙処理は高い効率である。 Fig.4 横浜の磯子火力発電所の廃ガス中のSoxとNOxの処理能 20 世紀後半から石炭ガス化複合発電(IGCC: Integrated coal Gasification Combined Cycle)がアメリカと日本で研究されてきた。実証プラントがアメリカのエネルギー省のサポートで建設されている。日本では、1980年代以降三菱重工、電力会社、NEDO(オイルショック後に作られた新エネルギー関連の国立法人)の国家プロジェクトとして開発されてきた。 微粉炭のガス化は既に1950年代に確立されていて生成された合成ガスの水素はアンモニア合成に利用される計画もあった。この計画は石炭から石油へのエネルギー変換でたち切れになっている。このガス化プロセスがIGCCに組み込まれている。酸素を制限した部分酸化によりCOと H2の合成ガスが生成されて、高温高圧のガスでタービンが回される。さらにこの高温高圧ガスを燃焼させてスチームを発生させタービンを回す。全発電効率は48%とのことである。現在、実証プラントは勿来IGCCパワー合同会社に引き取られ商業運転が続けられている。おそらくIGCCの商業運転をしているのは世界でここだけだと思われる。 Fig.5 IGCCプロセスの概略 かってのバイオマスであった石炭と石油、そして原子力エネルギーへの流れを手短に述べてきた。バイオマスの産物を元のCO2へ戻そうとすると大きな非難を浴びるようである。一度事故が起きたら取返しのつかない事態になる原発へ回帰すべきなのだろうか。IPCCのプロパガンダを鵜呑みにせず、科学的事実に基づいて今後のエネルギーの方向性をじっくり考えていきたいものである。

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温暖化問題とプロパガンダ

1960年代は化学工業の発展とともに工業公害が顕著になってきた時代である。その象徴的な公害が水俣病であった。原因の特定とその解決と終わりのない論争が続いたのである。ついに1968年にチッソのアセトアルデヒドの製造が中止になっている。最初の患者の発見から10年以上を要した。そうした中、国連が政治レベルで地球環境問題に初めて本格的に取り組み1972年6月、ストックホルムで国連人間環境会議が開催された。水俣病患者を診た医師の原田正純、環境学者の宇井純、水俣病患者らが出席している。 下図は先月(2022年、12月)、水俣病資料館を訪問した時の写真である。この資料館は、メチル水銀を含むヘドロの上を埋めたてた大きな公園内にある。そばの八代海は今は非常にきれいである。川向こうに現在のチッソ工場があり、細々と操業している。かっての企業城下町の面影はなく、新水俣駅、町ともひっそりとしている。 Fig.1 水俣病資料館で展示パネルに見入る子供たち (2022年、12月) 国連人間環境会議ではモーリス・ストロングが議長を務め、人間環境宣言が採択された。また国連環境計画(UNEP)の発足が合意され、ストロングがUNEPの初代事務局長に選出される。人間環境宣言は、20年後に開催された地球サミットでの「環境と開発に関するリオ宣言」採択の基礎になっている。 Fig.2 モーリス・ストロング (2010年) ストロングは1929年カナダのマニトバ州で生まれた。1947年の18歳の時、国連で下働きをして以来国連とは長く関係していてカナダと行ったり来たりしている。貧しい家に生まれたもののオイル関連のエネルギービジネスに関わり成功した人である。カナダ開発庁の長官をつとめ、実業界と公職の両方で広範な経験をつんだ。 1970年代は氷河期が来るかも知れないと囁かれることもあったのだが、1980年代なると一転して温暖化の方に関心が持たれることとなる。そこでUNEPと国連の世界気象機関(WMO)が共同で1988年に気候変動に関する政府間パネル (IPCC)を設立した。こうした経緯でIPCCはUNEPを通してストロングの影響が大きく反映されることとなる。 ストロングは持続可能な生活のため、世界共同体が共有すべき価値観づくりに意欲を燃やしていた。地球サミット後、自ら「アース・カウンシル」というNGOを設立し、「地球憲章」(Earth Charter)作りにも精力を注いでいる。条約や国際機関の整備などだけでなく、人々の意識や行動そのものが変革されることが必要であるということから、行動規範の制定を求めてきた。地球憲章は2000年に決定されている。本文の1-4条を読むとその理想主義的な思いが伝わってくる。 地球と多様性に富んだすべての生命を尊重しよう。 理解と思いやり、愛情の念をもって、生命共同体を大切にしよう。 公正で、直接参加ができ、かつ持続可能で平和な民主社会を築こう。 地球の豊かさと美しさを、現在と未来の世代のために確保しよう。 地球の気温、気候変化の問題を環境問題と捉えてIPCCと言う国連組織の基に国際的に行動をしようとしたのである。CO2を元凶にした公害問題に準ずる対処法は IPCC の行動指針になっているようである。「地球温暖化を抑制するためには、CO2排出量を削減すべきだ」という結論ありきの姿勢は設立から35年経つ今も変わっていない。 しかし、下記のTIMEの1977年と2008年の表紙の変遷を見ると分かるように現在なお地球温暖化については原因を含めて科学的定説はない。水俣病などの公害は、原因物質の同定には曖昧な部分があったが、因果関係ははっきりしていた。一方、温暖化問題では地球温度とCO2との因果関係は不明である。以前にも述べたように温度変化の方がCO2変化よりも先行している。CO2変化で温度が変わるのは極めて疑問である。今の所CO2の変化は温暖化の原因ではなく結果である考えるのが妥当である。温暖化の問題とかっての公害問題とを同一に取り扱うことは注意せねばならない。科学的に解明できていないにもかかわらず、持続的な地球を目指し先を急ぐと必然的にプロパガンダが蔓延することになる。そして感情的な言葉の応酬になるのである。 Fig.3 寒冷化と温暖化を警告するTIMEの表紙 グレタ・エルンマン・トゥーンベリ(Greta Ernman Thunberg)と言うスウェーデンの女性がいる。2003年1月生まれだから今年20歳である。ウィキペディアには、”15歳の時に「気候のための学校ストライキ」という看板を掲げ、より強い気候変動対策をスウェーデン議会の前で呼びかけを行ったことで名が知られるようになった”とある。以後メディアでの露出はひじょうに多いが、どこまで本人の自由意思による行動なのかは良くわからない。温暖化問題は科学の事象であり、感情論で片付く事柄ではない。グレタの感情的な行動は温暖化をCO2排出に結びつけようとするプロパガンダの一環ではないのかと言う気がしてくる。 Fig.4 緩慢な気候変動対策をなじるグレタ グレタのメディアでの露出を見ていると、ナイラ(Nayirah)と言う15歳の少女を思い出す。イラクによるクウェート侵攻の後、この少女が、イラク軍兵士がクウェートにおいて、新生児を死に至らしめていると1990年10月アメリカの議会で涙ながらに述べた(ref.)。この証言により、国際的に反イラク感情とイラクへの批判が高まり、湾岸戦争の引き金ともなった。しかし後に「ナイラ」なる女性は存在せず、クウェート・アメリカ政府の意を受けた反イラク扇動キャンペーンの一環であったことが判明した。今ではプロパガンダの一例としてしばしば採り上げられる。 Fig.5  反イラク扇動キャンペーンとして利用されたナイラ 19 世紀に小氷河期を抜け出して少しずつ温度が上がっているようだが、それがどうしてなのかは依然として明確な科学的根拠はない。今日 (1/24/2023) の朝日新聞の声の蘭に次のような記事があった。 少子化の原因はお金の問題だけだろうか。私は31歳だが子どもを授かりたいと思っていない。明るい未来が保証されていないからだ。私が小学生の時から問題視されていた地球温暖化は、近年の水害の増加や酷暑でリアルに感じられるようになった。さらに世界規模でのウイルスの蔓延(まんえん)、国家間の戦争や核兵器による威嚇―― 「地球温暖化は、近年の水害の増加や酷暑でリアルに感じられるようになった」と一般の人が言う。一方、多くの統計的データは異常気象の変化に有意差がないことを示す。こうした意見が出てくるのは、国連組織のIPCCやメディアによるプロパガンダが功を奏しているものと思われる。 1980年代は”地球温暖化”という語彙が使われていたのだが気が付くと”気候変動”、さらに最近は”異常気象”という語彙が溢れ出した。CO2と温暖化との関係については97%の科学者がCO2による人為的な温暖化に同意しているそうである。数値の出どころは全く不明である。結果的にCO2が異常気象を引き起こしているのだそうである。一気に科学を越えてしまっている。 CO2は地球環境にとり公害物質に成り下がってしまった。悪凶のCO2排出量は削減しなければならずそのためには化石燃料の使用を制限する必要があると説く。2011年の福島第一発電所の事故の後、将来の原子力発電はゼロにする方向であったのだが、いつのまにまた率先して利用して行くのだそうだ。地球環境問題と原発利用は矛盾がある。 むつ市、六ケ所村における使用済み核燃料の長期保管と再生計画は今も進展がみられない。地球環境と安全性確保のためには原子力の利用はあくまで最小限にすべきであろう。CO2排出量の削減をすべきというプロパガンダを短絡的に考えず、化石燃料の利用を冷静に考慮すべきであろう。 … Continue reading

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縄文時代は今よりかなり暖かだった

前回述べたように、およそ 7,000 年前から 5,000 年前の間は、第四紀の完新世 (Holocene) であり、暖かい時代であった。世界平均では、20 世紀半ばと比較しておそらく  0.5-2℃ 温暖だったと言われている。そして 5,000 年前から 3,500 年前にかけても温暖であり四大文明が栄えた。 この時期に日本でも北の青森、南北海道まで縄文文化が栄えた。それらの遺跡の一つである三内丸山遺跡へ、2022年12月18日に訪れた。ここは5,900~4,200年前の遺跡で、新青森駅から2.5㎞のところにある。その時は、ちょうど寒波の襲来で50㎝余りの積雪があった。当初は駅から歩くつもりだったが、雪のためバスで行くことにした。 この地に遺跡が存在することは江戸時代から既に知られていたが、本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年に開始された。その結果、県は既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。それから約30年経った 2021 年7月、三内丸山遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が、ユネスコの世界文化遺産へ登録された。 Fig.1 三内丸山遺跡、縄文時遊館の入口 Fig.2 三内丸山遺跡「ムラ」の外観 盛土と呼ばれるところがある。竪穴建物や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物をすて、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになったところである。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられる。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土している (ref.)。 Fig.3 盛土と保護するための覆い 盛土からは木の実と動物、特にクリと魚が多く見つかっている。現在の三内丸山遺跡は海岸線から約4kmの距離がある。そこで海への漁は不便だったものと思われるが、温暖化のために海水面は現在よりも高く遺跡のかなり近くまで海が広がっていたものと推察される(縄文海進)。以下には海水面が6 m 高かった場合のシミュレーションの結果をWebから参照して示す。青い部分がその当時に予想される海の部分である。現在の市街地からかなり内部まで入り込んでいることがわかる。 Fig.4 三内丸山遺跡の回り(現在の青森市)の縄文海進のシミュレーション例 下の写真は、地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていた。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていた。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられる(ref.)。   Fig.5(a),(b) 大型掘立柱建物の柱の跡と復元物 上記写真のホースは、しみ出て来る水を排水するためである。 さらに以下に大型復元建物の写真を示す。 Fig.6 大型竪穴復元建物の内部 柱は防食のために表面は焦がしていたという。 Fig.7 … Continue reading

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気候変動と自然変動 – アメリカの実例から

7,000 年前から 5,000 年前の間は、第四紀の完新世 (Holocene) で暖かい時代だった。そして 5,000 年前から 3,500 年前にかけての温暖な時代に四大文明が栄えた。青森の三内丸山遺跡もこの時代に相当する。以後、温度が徐々に下がり、小氷期が 3,000 年前に始まった。西暦 0 年、1,000 年前後の温暖期を挟んで、小氷期は1700 年代半ばに終了し、現代の温暖期が始まる。 アラスカの州都ジュノーから北北西 20 kmのところにメンデンホール氷河 (Mendenhall Glacier) がある。このあたりは、西から吹きつける湿った大気のせいで降雨量の多いところである。私が訪れた 8月の時も雨模様のどんよりした日であった。林の木々も苔むしている。冬には多くの雪が降る。北部のジュノー氷原の積雪となりメンデンホール氷河に供給される。小氷期が終わった1700 年代半ばの時点で、メンデンホール氷河は最大の前進点に達し、その終点は現在の位置から 4 km下ったところにあった。メンデンホール氷河は 1700 年代半ばに後退し始め、氷河のかっての先端は今、湖になっている。展望台にはこの先端の後退を記した説明図がある。 Fig.1 ジュノーから20 kmのところにあるメンデンホール氷河 (8/2/2014) Fig.2 上記氷河湖から流れる川下に遡って来た紅鮭 (8/2/2014) 下図は200年以上にわたる後退の様子である。終点は 20 世紀に 3 km 後退し、氷河の下部は … Continue reading

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現代の温暖期は気候最適期

恐竜の時代は手が届きそうにない遠い昔だが、人類が出現した頃となるとどういう時代だったのか考えてみても良さそうである。その時代は第四紀(Quaternary period)と呼ばれる。258 万 8000 年前から現在までの期間で、人類の時代という意味で決められた。ヒト属の出現を基準とし、地質層序や気候変動を併用して決定している。第四紀は、氷河時代とも呼ばれるように気候は寒冷になり、約 70 万年前からは大陸氷河は約 10 万年ごとに拡大縮小を繰り返してきた。氷河期にはヨ-ロッパや北米の大半は厚い氷床に覆われていた。 下図で示すように、北米はローレンタイド氷床 (Laurentide Ice Sheet) で覆われていて、厚さが 2,400–3,000 m のところもあった。以前住んでいたコロンバスはローレンタイド氷床の南端に位置する。コロンバス郊外に氷河公園 (Glacier Ridge Park) と名付けられた所がある。14,000 年前は、氷床で覆われていたという名前の由来の説明書きがある。 Fig. 1 第四紀のローレンタイド氷床 下はこの公園で日の出を撮った写真である。このブログのタイトル写真も公園内での一コマである。 Fig.2  コロンバス近郊に Glacier Ridge という公園がある。14,000 年前の氷河期にはこの辺りまで氷床で覆われていた。(9/16/2019) ベーリング海の名前で知られる、デンマーク生まれのロシアの探検家ベーリング (Vitus Bering) は、ユーラシア大陸とアラスカが陸続きではないことを発見した。ジュノーからアンカレッジの間にベーリング氷河という北米で一番大きい氷河がある。その氷河の端には氷河湖が形成されヴィタス湖と名付けられている。氷河と湖の名はベーリング (Vitus Bering) に因んでいる。 Fig.3  ジュノーからアンカレッジの間の上空から見えたベーリング氷河と太平洋岸で形成する氷河湖のヴィタス湖  (9/11/2021) … Continue reading

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気候変動に及ぼす主な自然変動

これまでのブログで地球の温度が変化し、その結果 CO2 が変わると言うことを述べてきた。現代の地球の温度は、CO2 の影響ではなく自然のサイクルで変わっているという主張である。そして、自然サイクルについて分かっていることをまとめようとすると、詳細について我々はまだまだ解明できていないことに気がつく。 気候変動とは地球表面のエネルギーが変動することであり、地球に降り注ぐ太陽エネルギーの変動に密接に関係している。また太陽エネルギーを受け取る側の地球の公転、自転の変動も関わってくる。地球は水の惑星であり、水は比熱、熱容量とも地球上では圧倒的に大きい。海は非常に大きなエネルギーを蓄えていて、表面、上下の方向へゆっくりと動いている。海が気候変動に大きく関わっていることは間違いない。 以下では、太陽の変動、地球の変動、海の変動について重要と思われることをまとめてみた。さらに、それら以外で最も影響の大きい火山の噴火について触れてみる。 1. 太陽の変動 太陽周期活動 – 太陽の活動が活発になると黒点の数は増える。そして黒点の数は 11 年周期で変動する。ある周期と次の周期では、先行黒点と後行黒点の磁場極性や極磁場の極性の反転があり、この効果も考えると周期は 22 年になる。11 年周期の変動と地球温度の変化には相関がみられる。11年周期は太陽の活動が大きいとやや短くなり逆に小さくなるとやや長くなる。下図は、その変動周期と北半球の平均気温変化を比べたものである。 Fig.1 太陽黒点数の変動周期と北半球の平均気温変化 太陽磁場とそれに伴って、地球磁場が変わると地球に到達する宇宙線の量が変化する。そして、宇宙線の量と雲の量には相関があることが見いだされている。雲の量が変われば温度も変わる。   Fig.2 黒点数(黒)と宇宙線量(灰)の変動   Fig.3 低層雲量(青)と宇宙線量(赤) 太陽の極小期と極大期 – 通常より弱いいくつかの太陽サイクルが数 10 年あるいは 100 年間重なると極小期として知られる現象が起きることがある。この極小期が過去 11,000 年の間 25 回起きた。最近の良く知られた例が、1645 年と1715年の間に太陽黒点が消失したマウンダー極小期である。日本では、マウンダー極小期に、享保、天明、天保の三大飢饉が起きた。下表で示すように、ローマ温暖期、中世温暖期さらに現代の温暖期は極大期に関連している。 Fig.4 太陽黒点の変化  Table … Continue reading

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現代の温暖期の整理 – CO2 濃度変化は原因ではなく結果である

******************** 産業革命以降、人為的な CO2 の排出量が増えてきた。19 世紀後半になると、小氷河期が終わり少しずつ温暖化が始まった。気温上昇とともに自然界の CO2 の排出も徐々に増えてきた。炭素バランスによると、自然界の CO2 排出量が圧倒的に多く、人為的な CO2 排出量は 5 % 以下に過ぎない。CO2 のバランスは、人為的排出と自然の排出からなる排出プロセスと、吸収プロセスからなる。大気のプロセスを解析すると、自然界の正味の CO2 年間排出量は温度変化により決められる。また吸収プロセスは、CO2 濃度に比例する一次速度式になる。産業革命以前の CO2 濃度は 280 ppm だったが、2020 年の CO2 濃度は 130 ppm 増えて 410 ppm である。解析によると、増加分 130 ppm のうち、18 ppm (14%) が人為的な増加分、そして 112 ppm … Continue reading

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