前回述べたように、およそ 7,000 年前から 5,000 年前の間は、第四紀の完新世 (Holocene) であり、暖かい時代であった。世界平均では、20 世紀半ばと比較しておそらく 0.5-2℃ 温暖だったと言われている。そして 5,000 年前から 3,500 年前にかけても温暖であり四大文明が栄えた。
この時期に日本でも北の青森、南北海道まで縄文文化が栄えた。それらの遺跡の一つである三内丸山遺跡へ、2022年12月18日に訪れた。ここは5,900~4,200年前の遺跡で、新青森駅から2.5㎞のところにある。その時は、ちょうど寒波の襲来で50㎝余りの積雪があった。当初は駅から歩くつもりだったが、雪のためバスで行くことにした。
この地に遺跡が存在することは江戸時代から既に知られていたが、本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年に開始された。その結果、県は既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。それから約30年経った 2021 年7月、三内丸山遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が、ユネスコの世界文化遺産へ登録された。
盛土と呼ばれるところがある。竪穴建物や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物をすて、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになったところである。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられる。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土している (ref.)。
盛土からは木の実と動物、特にクリと魚が多く見つかっている。現在の三内丸山遺跡は海岸線から約4kmの距離がある。そこで海への漁は不便だったものと思われるが、温暖化のために海水面は現在よりも高く遺跡のかなり近くまで海が広がっていたものと推察される(縄文海進)。以下には海水面が6 m 高かった場合のシミュレーションの結果をWebから参照して示す。青い部分がその当時に予想される海の部分である。現在の市街地からかなり内部まで入り込んでいることがわかる。
Fig.4 三内丸山遺跡の回り(現在の青森市)の縄文海進のシミュレーション例
下の写真は、地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていた。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていた。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられる(ref.)。
Fig.5(a),(b) 大型掘立柱建物の柱の跡と復元物
上記写真のホースは、しみ出て来る水を排水するためである。
さらに以下に大型復元建物の写真を示す。
Fig.6 大型竪穴復元建物の内部
柱は防食のために表面は焦がしていたという。
Fig.7 掘立柱復元建物
食料を保存するために使われたという。動物から
守るためにハシゴを取り外せるようになっている。
このムラの跡を見ていると、三内丸山遺跡が縄文時代前期から中期の遺跡で日本最大級の集落跡であることが良くわかる。縄文時代前期、中期の日本列島は今よりもかなり暖かく、南北海道、北の青森まで縄文文明が栄えていたのである。海水面は今よりも高くて、現在の陸地の内部まで海が入り込んでいた。森の食料に加えて海の食料が豊富に得られたのだろうと思う。
暖かった縄文時代の遺跡は東日本に多く分布する。これに対して、弥生時代は、縄文時代より気候が冷涼で、遺跡は東海地方以西の西日本に多く分布している。そして海岸線は大幅に後退し、平野が広がった。