温暖化問題 – なぜ原発回帰なのか

1958年、瀬戸内海の対岸の岩国(現三井化学)と新居浜(住友化学)で、ほぼ同時にフレアスタックから火が燃え始めた。石油化学の幕開けでナフサクラッカーが起動し始めたのである。今考えると両方とも日本最初のエチレン製造プラントだったが、土地のスペースはそれほど広くはなかった。それでも岩国は港をかかえ新造された麻里布丸(麻里布とは岩国の古い地区の名前)という四万七千トンのタンカーを横づけすることができた。新居浜は商店街を挟んだ社宅から耳を澄ますと「ゴー」というポンプ、圧縮機などが混ざった操業音が聞こえた。

fig-1
Fig.1 三井化学岩国工場のフレアスタックを東の小瀬川から臨む。
瀬戸内海へ注ぐ河口は遠浅になっていて1958年頃は潮干狩りに最適だった。

1960年代になると石炭から石油へのエネルギー変換が進んで行く。日本の石炭は低品位炭で硫黄分が多く、需要の多い製鉄に使われるコークス製造にも向いていない。また生産コストが高いために、北九州、北海道の炭鉱は次々と閉山していき輸入にたよっていくことになる。福島県浜通り南部の常磐炭鉱も縮小され、ついには閉山になった。

常磐炭鉱の閉山の後、雇用創出のために、1966年に地元の温泉を利用した大温泉プールを併設した「常磐ハワイアンセンター」が、現在のいわき市に開設された。同じ年に五市を中心に大合併して日本一広い市「いわき」ができる。当時は初めてのひらがなの市であった。また福島県も次期エネルギーと工業化を目ぼしい産業のなかった浜通りに画策していた。

宮城県南部から千葉県の房総半島まで長い砂浜の海岸線が続く。茨城県の中央部の鹿島は砂浜を掘って港を作り(掘り込み港湾)、鹿島コンビナートとなって行く。そして三菱系(当時の三菱油化)のナフサクラッカーが作られる。北は日本鉱業から派生した日立製作所が工業地帯を形成して行く。福島に入ると常磐炭鉱が閉山された後、海岸線に沿ったいわゆる浜通りには何も産業がなかったのである。

下はいわき市にある塩屋崎灯台を訪れた時の写真である。1961年に行った時は一面砂浜の海岸だったが、大震災の後2019年に訪れた時は、人工の防波堤と新たな道路が作られ昔の面影はなかった。塩屋崎灯台は、1957年の映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台になったところである。また岬の麓には美空ひばりが1987年にリリースした「みだれ髪」の歌碑ができていた。

fig-2
Fig.2 北側の人工堤防の上から塩屋崎灯台を臨む(2019/6)

常磐炭鉱が下火になったころ、東北電力は奥只見の水力発電システムを構築した後であり原子力エネルギーまで手が回らなかったらしい。一方、東京電力はすでに水戸の北にある原子力産業の拠点となっていた東海村近辺に原子力発電所の建設を考えていたようである。そこで福島県と東京電力の思惑が一致して、浜通りに原子力発電所の建設が決まったという。原発事故の後、福島県が東京へ電力を供給するための犠牲になったと言う人もいるようだが必ずしもそうではないだろうと思える。

1970年代に入ると1973年1979年の二度のオイルショックによりエネルギー産業の転換期を向かえる。石油エネルギーから原子力エネルギーへの多角化が図られていく。このころから原発の安全性がアピールされ始め安全神話が広がっていったようだ。2000年代に入り温暖化対策のカーボンニュートラルという世界の潮流が原発を後押ししていく。しかし、2011年に福島原発の事故が起きてしまう。そして「FUKUSHIMA」は原発事故の代名詞になってしまった。

福島第二原発の北に富岡町がある。昨年(2022年)12月にこの町を訪れた。2011年、富岡は震度6強を記録している。富岡駅は海抜9 mであり、この地区は最大21 mの津波被害を受けている。さらに原子力災害という三重苦を負った。駅舎、駅の回りの家々は全て新築であった。常磐線は、2020年3月、富岡―浪江間で運転を再開し、9年ぶりに全線がつながっている。

この富岡町に2018年東京電力廃炉資料館ができた。現在は予約した上で案内係の人と共に見学することになっている。写真撮影は案内係の人の前でのみ可能である。下の写真は事故後を写したスライドの前で説明する案内嬢である。

fig-3
Fig.3 事故後の第一原発を写したスライドの前で説明する案内嬢(2022年、12月)

この資料館が、現在見学者へ伝えたいことはやはり汚染水の処理にについてと思われる。汚染水は淡水化装置を経て濃縮される。さらにALPS(Advanced Liquid Processing System)という独自のプロセスでトリチウム以外の62種類の放射性物質が規制基準を下回るまで浄化処理される。この装置は、沈殿処理吸着処理からなっているようである。汚染水中のトリチウムは水すなわちHTO(通常の水はH2O)として存在する。トリチウム水は通常の水と化学的性質が同じなので、煮ても焼いても汚染水から取り除くことはできない。そこで最終的な処理水は海水で希釈された後、海へ放出されることになる。100倍近くに希釈するようである。処理しても含まれるトリチウムの絶対量は変わらない

どのようなプラントも二重、三重の安全対策が施されている。圧力容器は必ず非常時の高圧を逃すためのデバイスがついている。弁や板が使われる。原子炉の圧力容器、格納器も同様のはずで、ニュースで耳にしたベントもそうであろう。従って、異常時には少なからず汚染物質が外へ放出される。原発は限りなく安全に近いのだろうが、事故が起きてしまうと福島のように取返しのつかないことになる。

地球温暖化が重大であり、化石燃料からのCO2排出が原因だと信奉する人々にとって、エネルギー源を何に求めるのかは、ジレンマに陥る問題に違いない。彼らにとり化石燃料はCO2を排出する悪役、原発はCO2を出さない善役である。しかし、現代の科学データは「温度変化の結果がCO2の変化である」ことを示している。この立場に立つと今後のエネルギー対策と地球環境の方向性が180度変わることになる。化石燃料は今後数百年の可採埋蔵量がある。特に石炭は広く分布し日本にもまだ埋蔵量がある。

今後石炭は、以前のように日の目を浴びても良いはずである。日本の火力発電所は排煙処理が行き届き、発電効率も高い。下図は横浜にある磯子火力発電所におけるSOx(硫黄酸化物),NOx(窒素酸化物)の排煙処理の例である。世界の他のプラントに比べ排煙処理は高い効率である。

fig-4
Fig.4 横浜の磯子火力発電所の廃ガス中のSoxとNOxの処理能

20 世紀後半から石炭ガス化複合発電(IGCC: Integrated coal Gasification Combined Cycle)がアメリカと日本で研究されてきた。実証プラントがアメリカのエネルギー省のサポートで建設されている。日本では、1980年代以降三菱重工、電力会社、NEDO(オイルショック後に作られた新エネルギー関連の国立法人)の国家プロジェクトとして開発されてきた。

微粉炭のガス化は既に1950年代に確立されていて生成された合成ガスの水素はアンモニア合成に利用される計画もあった。この計画は石炭から石油へのエネルギー変換でたち切れになっている。このガス化プロセスがIGCCに組み込まれている。酸素を制限した部分酸化によりCOと H2の合成ガスが生成されて、高温高圧のガスでタービンが回される。さらにこの高温高圧ガスを燃焼させてスチームを発生させタービンを回す。全発電効率は48%とのことである。現在、実証プラントは勿来IGCCパワー合同会社に引き取られ商業運転が続けられている。おそらくIGCCの商業運転をしているのは世界でここだけだと思われる。

fig-5
Fig.5 IGCCプロセスの概略

かってのバイオマスであった石炭と石油、そして原子力エネルギーへの流れを手短に述べてきた。バイオマスの産物を元のCO2へ戻そうとすると大きな非難を浴びるようである。一度事故が起きたら取返しのつかない事態になる原発へ回帰すべきなのだろうか。IPCCのプロパガンダを鵜呑みにせず、科学的事実に基づいて今後のエネルギーの方向性をじっくり考えていきたいものである

This entry was posted in Global Warming. Bookmark the permalink.

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>