パイオニア・野口

 ニューヨーク市の喧騒が嘘のように静かなウッドローン墓地であった。五月のメモリアルデーの休日を利用して、NY市に住む娘夫婦を訪れた時、野口英世の墓のあることを知って、ドライヴを兼ねて訪れたのだった。墓地の門衛に、ドクター・野口の墓を尋ねると、いとも簡単に地図の中の一箇所を示してくれた。若い黒人女性が、三十万の墓の中から、ノグチという、それも異国から来た者の名前を知っていたことに驚嘆した。

門衛の若き女性はいとやすく「ノグチ」示せり墓地のマップに

 野口英世の墓は科学者・発明家の眠る殿堂(Hall of Fame)の区域にあるとわかり、400エーカーの広大な墓地内を近くまで車を走らせた。簡単に見つかるだろうという意図に反して、一つ一つの墓に刻まれた名前を歩きながら探すこと約三十分、やっと、芝生に埋もれた平らな墓を見つけた。1876年に生まれ、1929年に没した細菌学者である。

 墓の前に誰が手向けたのか,枯れかけた小さな花束が置かれていた。野口の墓の隣には、同じくひっそりと妻のメアリーの墓があった。そして、野口の墓の後ろには、医学研究に尽くした野口博士の貢献を称えるロックフェラー財団のりっぱな碑が建てられていた。野口の学究生活は、ロックフェラー財団の援助なしには成就しなかったであろうし、当時、はるか日本から来た研究者に、ロックフェラー財団研究所が、彼を迎えたのは有望な実力を高く評価していたからであろう。

この異土に誰が手向けし花束かノグチの墓に小さく置かる 

 ニューヨーク郊外の緑があふれ、木漏れ日がさんさんと降る野口の墓の前で、“彼はここに本当に眠りたかったのだろうか”という思いを抱いた。研究に没頭し、次々と新しい細菌を発見して行った最盛期の、学究半ばに五十二歳でアフリカの地に倒れたのである。清作と呼ぶ母の切々と訴えるような手紙に、望郷を感じたことはなかったのだろうか。生涯に一度だけ、十五年振りに郷里・福島に帰国をした野口だった。

清作と呼ぶ声ふりてくるような緑あふれるノグチの墓は 

 2009年の3月に日本に行った時、福島県の磐梯に立ち寄った。野口の出生地の猪苗代湖は隣接地であり、このみちのくの地に野口少年は育ったのかと思いを馳せた。少年は故郷から、いつか広い世界に出ることを望んで成長した。三月の末とはいえ、東北に春は遠く、時折り風を切って、粉雪が舞っていた。

母の文に望郷重ねし日もあるか野口の帰国は生涯一度

 野口英世の研究生活は、アメリカに留まることなく、南アメリカやアフリカ、ヨーロッパへと彼を必要とする所へ行き、寝食を惜しんで疾病の究明に没頭した。現在、多くの日本人が海外で活躍しているが、野口はその先駆者であろう。それも自分の実力と努力で人生を切り開き、疾病に苦しむ人々の未来に光をもたらした真のパイオニアであろう。

テロリズム・核戦争の世を遠くノグチ眠れり異国の墓に


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