メキシコ・クルーズの旅

 雪掻きを一度もすることなく暖冬の季節が過ぎ、三月下旬のオハイオ州は、すでに芝生が緑に萌えていた。夫と私は春休みを利用して、メキシコへ一週間のクルーズの旅に出かけた。ニューオリンズ空港に着くと、2005年に襲ったハリケーン・カトリーナの災害が脳裏をかすめた。その七年前の記憶と東北大震災の記憶が重なり、目の前に広がる穏やかなミシシッピ河が、何か魔物の爪を隠して静かに息づいているようにも見えた。

 埠頭に着くと見上げるほどの“カーニバル”の巨船が現れ、午後四時の出航を待っていた。パスポートのチェックもなく客となり、部屋に荷物をおいて船内を一巡し始めた。1998年に就航のニ千人余の乗客とスタッフ九百人余の7万トンの船である。最近は13万トン級のクルーズ船が多いが、それでも船内は、プール、スパ、フィトネス、美容院、カジノ、カラオケ、画廊、図書室、フォトスタジオ、バフェ、すしバー等など、ありとあらゆる娯楽と趣向が満載で、飽きることなくクルーズを楽しめるよう工夫されていた。

 毎夜のディナーの席のメンバーは決まっていて、丁度私たちの年齢の五組の夫婦が同席した。ペンシルベニア州の再婚同志のカップルはハネムーンだと言い、アーカンソー州の二組は、農業を退職した記念の旅だと言う。バーモント州の夫婦は、三回目のクルーズと旅慣れていた。子供や仕事、風土等を話題に、毎夜ヨーロッパ風の新鮮な料理に舌鼓を打ち、写真を撮り合った。

 船内のどこに行っても、クルー(乗組員)はアジア人が多いことに気づいた。オフイサーを除いたクルーの70%はインドネシア、マレーシア、フィリピンなどの国から働きに来ていると言う。アメリカ人の働き振りに慣れた私の眼には、てきぱきと丁寧に、そして、気持ち良く仕事をこなしていく彼らの働き振りが新鮮に感じた。片言の日本語で話しかけてくるクルーもいてうれしかった。

 メキシコのプログレッソに着き、チチェニッツァのツアーに参加した。マヤのピラミッドに、蛇の影が現れる春分の日より一日遅い日であったが、マヤ文明のメッカは観光客と商売人であふれていた。中でも小さな子供達が「ハンカチ・1ドル」と寄って来て、しばらく付いてくるのには困った。その瞳は真剣で、その日の生活の糧がかかっている眼差しであった。アメリカでこういう眼を見ることはないだろう。マヤ人達の暮らしぶりは本当に貧しく、胸が痛んだ。私たちと同じ蒙古班をもつ人種であり、ガイドの男性は優れた歴史を持つマヤ人であることを誇りとしていた。

 ユカタン半島の東側のコズメルは、カリブ海の広がる明るい観光地であった。四隻のクルーズ船が停泊していて、買い物客や海水浴客で賑わっていた。真っ青な海を前に、若者達は、飲んで歌って踊ってカリブの太陽に溶け合っていた。

 メキシコでは、イグアナという食植性の珍しいトカゲをよく見かけた。マヤのピラミッドの上に、草の上に、また、海岸の砂の上にと色彩を変え、自在に生息していた。熱帯の国の王者のような風貌をしており、メキシコの風土に良く溶け合っていた。


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