リンカーンを訪ねて

 

 深閑とした森の道を歩いていると、斧を担いだ背の高いリンカーン少年に出会えるような気がした。三月の末とはいえ、インディアナ州最南部のスペンサー郡は、時折り冷たい風が吹き、コートに手を入れながら、リンカーン少年が過ごした土地を探訪した。

 

 1816年、リンカーンの父トーマスは、ケンタッキー州での貧しいパイオニアの生活に見切りをつけ、妻ナンシーと二人の子を連れて、オハイオ河を北に渡った第二の未開の地に夢を託したのだった。リンカーン七歳、姉のセーラが九歳の時だった。森の中に道を開拓しつつ、やっとたどり着いた奥地に小さな丸木の小屋を建てたという文字通りフロンティアの暮らしであった。貧しいながらも家族四人が慎ましく暮らした最初の二年間が、少年リンカーンにとって、最も幸せな時期であったのかも知れない。リンカーンが九歳の時に母が、十九歳の時に姉が亡くなり、心の奥底に深い傷を残したが、この辛苦の体験を通して、少年から青年へとリンカーンは逞しく成長をしていった。  

 

    ● 母そして姉失いし少年の「傷心」疼く森を歩けば

 

 現在この地は「少年期リンカーン国立記念公園」とされ、四つの大きな彫刻パネルが、訪れる人々を静かに歓迎している。@「幼年期」(ケンタッキー州)A「少年期」(インディアナ州)B「政治傾倒期」(イリノイ州)C「大統領指令期」(ワシントンDC)とリンカーンの歩んだ道がデザインされている。記念館の中に実母ナンシーの肖像画が飾られていた。写真を残すことのなかった若い母は、知人たちの想像によって描かれたというが、若きリンカーンを彷彿させるに十分であった。また、小高い丘のパイオニア墓地の一角に、母の白い墓石が静かに眠っていた。

 

    ● 残されし一枚の母の肖像画リンカーンの顔を重ねて見上ぐ      

 森の道を歩いて行くと説明文の付いた「サッサフラス」の樹に出会った。当時は船材や石鹸、香料、紅茶等にと多用で貴重な樹木であったことがわかる。リンカーンが筏を作ったのもこの樹だろうか。商売を始め、筏に乗ってオハイオ河から南部へと下った少年は、初めて奴隷の売買を見て、生涯心を痛めた。

    リンカーンの筏漕ぐ音聞こえくるオハイオ川の土手に上がれば     

 記念公園を後にして、オハイオ河に南下の途中、忽然と現れた巨塔に目を見張った。建物もない広々とした野に、原発の冷却塔(クーリングタワー)がそびえており、リンカーン生誕からの二百年の時の変化を思わずにはいられなかった。リンカーンが生きていたら、どんな思いでこの巨塔を見上げただろうか。

    原発の冷却塔のそびえおり少年リンカーンの住みいし土地に (朝日歌壇)

 七歳から二十一歳まで過ごしたこの土地を、リンカーンは「喜びや思い出に満ちているが、悲しみもまた満ちている。」と回想している。  

 ヴィジィター・センターで買い求めたマグカップの人は、上背で瘦身、黒いあご髭を蓄え、憂いに満ちた眼差しを注いでいる。暗殺されるまでの五十六年の短い生涯であったが、庶民と共に生きた十六代の大統領であった。  


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