アイルランドの旅 

 眼を閉じるとどこまでも広がる真緑の牧場、そして真青に澄んだ海が浮かぶ。アイルランドの美しさは、帰国後もしばらく私をとらえて放さなかった。アルバムの一ページ一ぺージに、豊かな自然と温かな人々との出会いが、今も静かに息づいている。

 米国に二十年余住んでいるが、アイルランドは遠いヨーロッパの国であった。娘がアイルランド出身の青年と結婚することにならなければ、この国を知る機会はなかっただろう。ニューヨークに住んでいる二人が、結婚式をアイルランドで挙げると知らせてきた。かくして五月、夫と私は十日間のアイルランドの旅に飛び立った。三つ葉のクローバー、映画「タイタニック」の移民達、リバーダンス、エンヤのカルティック音楽、歌手ボノのアフリカ支援‥この国についての私の知識は、あまりにも断片的で乏しかった。

 アイルランドは隣国イギリスに統治され、完全な独立(1949年)まで三百年を要した。北海道と同等の面積に、人口は三百八十万。(1845年から五年間の穀物大飢饉で、百万人の餓死者、二百五十万人の移民が海外に移住した。)その上、人口の40%は二十五才以下という若い世代である。暖流の影響で気候は温暖、冬の積雪も少なく、一年中が緑である。酪農と畜産の盛んな国、バーナード・ショウ等の四人のノーベル文学受賞者を出した文学と演劇の国、ケルト文化とカソリック大聖堂の国、そして、ヨーロッパのハイテクの拠点として進出の目覚しい国である。

首都ダブリンで車をレンタルし、時間さえあれば半島や湖の周辺、古城や町をよく歩いた。ディングル半島の突端から丘の頂まで、羊や牛が放牧されていた。時々、道に迷い出た羊に出会ったが、背に赤や青の所有を示すマークが付けられていた。この岬を歩いていて、「ライアンの娘」の石碑を見つけた。1970年に制作された映画であるが、撮影当時の自然の美しさを今に残していた。

「ライアンの娘」の石碑読みおれば風の岬に通り雨くる (朝日歌壇)

 パブはアイリッシュ達にとって、欠かせない社交場である。どんなに小さな村でもパブを見かけた。ギネスやウイスキーを飲むだけでなく、生演奏も楽しめる店もある。通り雨に遭ってパブに駆け込んだ時、食べたシーフードのランチが新鮮だった。

いくつもの町を通過すいずこにも「ギネス」掲げるパブの見えたり    

 ダブリンは歴史と文化が調和した活動的な首都である。1916年、アイルランド義勇軍は反英蜂起をした。その時の銃弾の跡が柱廊に残っていると知り、中央郵便局を訪れた。イオニア式の美しい建物の一角に、当時処刑された十五人の若者が切手となって販売されていた。九十年後のこの国を見る、彼らの澄んだ瞳が印象的だった。

アイルランドの独立掲げし勇士たち切手となって現在(いま)をみつめる   

 空港のロビーに、元ケネディイ大統領の大写真があった。彼の曽祖父が米国に移住した人である。テロを警戒し、米国人のみ二重の出国手続きをして機内に移動した。眼下に広がる緑と羊の点々が次第に遠ざかっていった。

参考文献

http://www.tourismireland.com/


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