12/04/2011

開戦後日本外交官が収容されていたホテル 

アパラチア山脈はロッキー山脈に比べると規模は小さいのだが、それでも奥深く行くと人里離れた小さな町のみとなる。ウェストバージニアのそういうところに Greenbrier Hotel というホテルが忽然と現われるところがある。一泊 $400 の1778 年に建てられた由緒あるホテルで、私みたいな庶民が気軽に泊まるいうわけにはいかない。第二次大戦が始まった直後の 1941 年 12 月から 1942 年 6 月まで日本、ドイツ、イタリアの外交官および家族がここに収容されていた。日本人は総勢 400 人いたそうだ。この辺りの経過は柳田邦男の「マリコ」という小説にも出てくる。 ホテルはゴルフ場を含め広大な敷地内にある。 

この夏スモーキーマウンテンへバケーションに行く途中寄ってみた。当時のものが何か残っているかもしれないと期待しながら見学してホテルを出ようとした。がっかりしたような表情を見てか、出口のドアのところにいた美人の案内嬢が声を掛けてくれた。「戦時中、大勢の日本人の外交官が収容されていたはずだが何か残っていないのか」と尋ねると、歴史家にページングで連絡してくれた。ゴルフの見学をしていたにも関わらず博士号を持つ人が駆けつけてくれた。

「マリコ」の両親の話をするとすぐ理解してくれて、私自身その時は名前を思い出せなかったのだが、彼がすぐさま「テラサキ」と返答してくれた。別棟の小さい家が博物館になっていて当時の写真を十点程度見ることもできた。このホテルがビデオの冒頭にでてくる建物である。収容されていた人の安全確保の観点から当地のような辺鄙なところが選ばれたということだ。敷地内にかなりの FBI および軍が駐留していたと言うことだが、収容されていた人は比較的自由だったらしい。博物館の隣が子弟のための学校に使われていたという建物で、ビデオにも出てくる。ホテルの横が 400 人の記念写真を撮った場所である。その写真も残っていて「マリコ」と両親を指摘してくれた。一部の写真は柳田邦男の本にも収められている。

テネシーのスモーキーマウンテンの西にあるさほど大きくない Johnson City という町が、「マリコ」の母親の故郷で、戦後二人でこの町へ日本から戻ってきた。マリコはここにある大学で学んでいる。例の歴史家は母親に会おうと何度か掛け合ったそうだが、思い出したくないということで結局会えなかったそうである。スモーキーマウンテンの反対側はかって、ヨーロッパからの白人に追い出されるまで大勢のチェロキーのインディアンが居住していたところである。彼ら自身が経営する博物館があり、往時を少し見ることができる。ビデオにも一部映っている。

テネシーの東部一帯はかって景気対策をかねて、かなりのダムが作られたところである。その TVA のダムのうち Norris Dam が見学者のために開放されている。ビデオの後半に出てくる。さして訪れる人もいない事務所にはリタイアーした人がいて、退屈なのか、ひとしきり彼が仕事をしていた往時のダムでのことを話してくれた。現在の景気対策のためにオバマがめざすところと重なる。テネシーからの帰路にケンタッキーがある。トヨタの根拠地である。夏から経済の状況が一変したので、来年はトヨタ、町の情勢も変わるに違いない。ケンタッキーの地方のバーボンの Wild Turkey の工場を見学し、バーボンの原酒を買って帰路となった。

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